続・今日もやっぱりかえる顔

なぜか巻き起こってしまうまぬけな日常を、ひらがな中心のまぬけなテイストでお届けします。ときどき乃木坂46。

僕が英語が話せない理由-日本の英語教育を考える-

まったく自慢になりませんが、わたしは英語が話せません。
英語を使ってのコミュニケーションができません。

もちろん義務教育や高校、そして大学の一般教養でも英語を学習しましたが、まーったくこれっぽっちも話すことができません。

今回の記事は、自分の体験を通して、なぜ日本人の多くが英語でのコミュニケーション(英会話)を苦手にしているのか、その理由を日本の教育制度と合わせてまとめてみたいと思います。

えらそーな題名ではありますが、ひらがな中心のまぬけなブログのかえるがおらしく、
通常運転としまして、仰々しくなく簡単な内容でお送りさせていただきます。

 

 

 

英語は世界の公用語

 

現在日本に住んでいてほとんど海外旅行にもいきませんし、仕事でかかわる外国籍の方も全員日本語ではなしかけてくれますので、英語が話せないことについて、日常生活にほとんど支障はありません。

ただ、へんなんですよね。よく見るテレビ番組のテレビ東京「YOUは何しに日本へ」を見ていると、どんな国から日本に来られた方でも、ほぼすべての国の方々がインタビューを英語で答えられるスキルがあります。

「英語は話せないですよ」とインタビューに答えられた旅行者の方は、番組のこれまでの歴史の中で数回くらいしか見たことがありません。それだけ世界各国、どんな国でもで英語を話せる人が多いということでもあります。

旅行者の方の中でも、英語ネイティブの方の割合はそれほど多くないでしょうし、英語が公用語ではない国では、日本と同様に英語教育を受けて、外国語として英語を話すことができるようになった人が多いことでしょう。


では、なぜ世界各国の方々は英語教育で英語が話せるようになり、なぜわたしは日本という世界でもトップレベルの教育を受けれたにも関わらず、まーったく英語が話せないのでしょうか。

 

英語の専門家に話を聞いてみる

わたしの知り合いで、英語を得意な人に今回の疑問をぶつけてみよう思いまして、誰が適任か考えてみました。すると、適任がいましたよ、いました。学校の英語科の先生はどうでしょうか?

この先生は、わたしと同期で中学校の英語の先生です。

ある都道府県で教員採用試験の倍率が一番高かった年に、難関を突破して教員になったというかなりの秀才です。しかも頭いいにもかかわらず、まーったく鼻にかけることがない、わたしと同類項のまぬけかげんの人物です。

このひとが適任ですね。当たり前のことを聞いてもばかにすることはないでしょうし、
英語の研究もやってたから、英語教育にもくわしいはずです。

早速この人に、なぜ日本人は英語を話せない人が多いのか聞いてみました。その時の回答はこんな感じです。

 

しゃべる必要性があまりないし、しゃべれるようになる教育もあまりしてこなかったからね。今時の若い子は、少ししゃべれると思うよ。

 

えー、そんだけ?と言いたくなるようなシンプルな回答ですが、考えてみると結構いい指摘をしていそうな気がしないでもないです。

 

英語の先生の英会話力

うーん、でもへんなんですよね。なぜかしっくりきません。
思い出してみると、この人物の英語の授業を何度か見に行ったことがあります。

へんだと思った原因はここにあります。授業が始まる前に、どこの学校にもいるネイティブの講師の方(地域によっていろいろ呼び方が違う)と話していたのですが、その英語がめちゃめちゃ片言なのです。


そんな片言だったら、わたしでもしゃべれるんじゃね?と思うくらいに、わたしの英語のコミュニケーションから、言葉が出ない時のおおげさな身振り手振りを除いたくらいのコミュニケーションしかできなくて、同期のみんなで「おいおいっ」ってつっこんだ記憶があります。

過去最難関の教員採用試験を突破してきたエリートの先生でも、流ちょうに英語を話すことができないんですねぇ。日本の教育を受けたエリートでも流ちょうに英語を話せないのであれば、やっぱり日本の英語の教育に問題があるのでしょうか。


ちなみに、このことことを本人に、おもしろ話題として記事に書くからね、LINEを送ったところ

どーぞ✨、つかってくださいよ😊


だそーです。こいつもきっとまぬけな人種の仲間なんでしょうねぇ。

 

日本の英語教育に問題があるのか

どうも日本の英語教育に問題がありそうというヒントが綿密な取材(←うそ)により判明しました。英語教育のエリートでも、英会話力に問題があるのであれば、日本の英語教育に問題があると断言してもよさそうです。

難関の試験を突破するための英語力があっても、日常の英会話力にはつながらないという例でした。きっと入試でも中間でも期末でも、テストにでる英語は、英語の知識について求められていて、英会話力をはかるための基準ではないのでしょう。


でも、またまたおかしいんですよねぇ。

お隣の国の韓国では、知識をはかる手段でもある受験での競争が日本よりはるかに激しいのに、韓国のかなりの人が英語を話すことができるんですよね。わたしの知り合いのひとなんか、5か国語話せるそうです。5か国語なんて夢のような話です。

また、さっきのまぬけな同期の英語の教員の授業を何度か見たのですが、一般的な教員のように、授業中に1人でぺらぺらしゃべって、学習の主役である生徒がだまーって話を一方的に聞いて、退屈だから時計ばーっかりみて、全然時間が進まないと感じてしまう、そんなよく見る授業ではなかったんですよ。


生徒主体の授業で、学んだ文法をまわりの人としゃべることに多くの時間を費やす、
生徒の声と笑顔が印象的な授業でした。まぬけな分だけ生徒目線の考え方は超一流です。

本人はちゃんと英語を話すことはできませんが(英検は1級か準1級だったような?)、ネイティブ講師が苦手な発音を補い、ほとんど生徒が英語を話すような、英語でのコミュニケーションを体験する体験学習をやっていました。


確かに定期テストや入試では、大勢の試験を受ける人に対して到達度を評価する必要があるため、英会話より知識重視の評価基準になるのですが、一般的に学校の英語の授業は、この教員のようにコミュニケーションを中心にした授業が多いような気がします。


まだまだ学校では教師の一方的な話で、学習の主体者の子ども側が話を聞き続けるだけの授業の方がとても多いと思いますが、特に英語科だけは少し前から、授業を受ける側が主体的に活動するような授業が増えてきた感想を持っています。

そう考えると確かに原因のひとつではあっても、一概に日本の英語教育だけが、英語を話せない日本人が多いという現状を作り出したとは、言い切れなさそうです。

英語を話せない原因は遺伝

日本人が英語を話せない人が多いと、話が大きくなりすぎたので、わたしが英語を話せない理由に話を戻したいと思います。

小学生の頃に名作の若草物語を読みました。南北戦争の時代の4人姉妹(メグ、ジョー、ベス、エイミー)のお話です。みなさんもよく知っていることでしょう。

でも、小学生のわたしにとっては「ベス」と言われても、長女だか次女だか忘れてしまって、登場人物のページに戻って「ああ、3女だったかぁ」、と確認してまた本文に戻り、読み進めていると次は「メグ」って誰だったっけ?とわからなくなり、そしてまた登場人物紹介のページに戻るの繰り返しでした。

そのうち、いちいち登場人物紹介のページに戻るのがめんどくさくなって、結果的に若草物語を途中で読まなくなってしまいました。

どうやらわたしにはカタカナの名前が覚えられないという、致命的な欠陥があるようです。どおりで英語が苦手で話すことができなかったんですねぇ。

父親も母親も聞いたことはないですけど、あのかおを見ていると英語が得意そうな雰囲気はまーったくありませんし、きっと思考回路が純日本風になっている遺伝的なものなんでしょう。


そう思ってみると、またもや遺伝説を打ち消す例外を思い出しました。
姉は英語科を卒業して、たしか空港で英語を話す仕事をしていました。


姉はただのいぢめっこでわたしをいぢめることが趣味なんじゃないかと思ってましたので、すっかりその存在自体を忘れていたのですが、確かに英語科出身で英語をしゃべれそうです。

英語しゃべれるんかい?なんて聞くと、30分の自慢話をする姉のかおがうかんできそーで、気分が悪くなりますが…

原因に近づく

どうも遺伝説も英語を話せない有力な候補にはならなそうです。
自分のことなので、もっと冷静に考えるときっとヒントがあるはずです。

 

学生時代はまーったく勉強はしないで、高校でも授業の3分の1休んでも単位をくれると聞いてから、すぐに3分の1休もうと思ったくらいの、まぬけな考えを持つ学生でした。普段から全く勉強はしないので、テスト直前に部活が休みになってから一夜づけで勉強していました。

国語は文章をよく読めば答えが書いてあるし、数学は公式を覚えるのと、これまで習った既習事項を使うと答えを導くことができるし、理社は教科書の強調文字の部分をチェックペンでひたすら覚えることで、なんとか定期テストに対応することができました。

ただ、やっぱり学生時代から英語は苦手で、どれだけテスト勉強をしても単語で点数は取れても、あとは悲惨な結果だったような気がします。英語の成績がよければわたしの人生も変わってたのかもしれませんね。まぁ、いまの人生で十分ですけどね。

 

英語に対する苦手意識の芽生え

 

英語が話せない原因について、けっこういいところまで近づいてきました。しっかり思い出して確信までたどり着きたいと思います。

じゃあ英語の点数が悪くなったのは、いつくらいからなのでしょうか。

当時の通知表を見てみると、中1の1学期は全く苦手にしていないようでした。この頃はアルファベットと"Hello"や"This is ~"など簡単なセンテンスを学習する時期です。

では中1の2学期の成績を見ると、あれ?5段階評価で1段階成績が悪くなっています。そういえば、中1の2学期がはじまると、すぐに入院して学校に行けない日が続いてました。


入院中は声変りをしていない声で、病室で姉と歌いまくって「うるさい」としかられた記憶があります。
そして、退院した翌日バレーボールの大会に出て、体育の先生に叱られて
そして…
もうやめときましょう。思い出されるのは叱られた話ばっかりです笑


たしかに、久しぶりに登校した学校で、全然知らない異国のセンテンスを聴いて、驚いた記憶を思い出しました。当時のそのセンテンスまでよく覚えています。


Let's Go to a Horse Show


れっつってなんだよー、知らないところに点までついてるよーと、ぷちぱにっくに陥っていました。

きっとこの頃からですね。英語に苦手意識が芽生えたのは。本当に英語って難しいし、想像もしないような発想なんだなーと思いました。

 

僕が英語を話せない理由

 

英語に対する苦手意識が芽生えた理由はよくわかりました。ただし英語科という教科についての苦手意識であって、英会話自体の苦手意識ではありませんでした。

わたしには英会話自体が苦手になった決定的なことが待ち受けていたのは、理解できないセンテンス事件から2年がたった、中3の頃のことでした。

どこの学校でも採用されているネイティブの英語講師の授業が原因でした。ネイティブ英語講師さんの授業は、英会話でのコミュニケーションが主体になる授業が多いと思います。その日の授業もネイティブ講師のお手本に合わせて、みんなで英語の発音をするという授業でした。

みんなで一緒に発音した後、ネイティブ講師さんは生徒を指名し、その生徒ひとりでみんなの前で発音するという授業形態でした。


その日はなぜかわたしが指名されてしまっちゃいました。
今だったら、英語教師さんの発音に合わせて、英語の発音っぽく発表することができますよ。でも、当時思春期のかえるがおは、みんなの前でネイティブ英語っぽく発音するのが、はずかしくてはずかしくてできませんでした。

日本語の50音にないような英語発音をすることで、
「なんだあいつかっこつけやがって」って思われるかもしれないとか
「いつもはあんな発音しないくせに」なーんて思われるんじゃないか、との妄想にとりつかれておりまして、はずかしくてはずかしくて、英語っぽい発音をクラスのみんなの前でできませんでした。

食べる姿を見られるのがはずかしいと思う思春期の頃が、みなさんにもあったかと思いますが、その感覚によく似ています。

そこでわたしが選んだ作戦は、おもしろいことを言って笑いにしてごまかそう、作戦です。この作戦は、おぢさんへと成長した今でも、主要な作戦としてコミュニケーションで利用することが多いです。空気が悪くなった時や、話の間がこわいので、この作戦を実行します。


中3のわたしも、笑いをとってごまかすために、英語をわざと思いっきり日本語発言で
「でぃす いず あ ぺん」というように、ひらがなを読むかのように発音しました。


クラスメイトも、まさか英語の時間に思いっきり日本語発音をするとは思いませんので、そのときの教室は大爆笑でした。ピンチを笑いに逃げるという作戦はうまくいったのですが、どうもしっくりこないんですよねぇ。

本当ははずかしくて日本語発音をしただけなのに、すごく笑われてしまって、あの日以来、「英会話はもういいや」「しゃべりたくない」と思うようになってしまったのです。

自分から選んだ作戦なのにも関わらず、自分で傷ついているんですから救いようがありません。思春期とはいえ、むかしからわたしはまぬけだったんですねぇ。

 

英語が話せるようになるために英語教育に必要なこと

という幼いわたしの笑い話だったんですが、わたしのようにまぬけな人は珍しいとしても、一応この話を参考にして、一般的に英語が話せるようになるために、英語教育に何が必要なのかを考えてみたいと思います。

現在、学校では男の子がトイレの個室に入れない問題が未だに残っています。
女の子と違って、男の子はトイレの場所によって目的がばれてしまい、からかわれてしまうことさえあります。男子トイレをすべて個室にする学校もあるほどです。


なぜ男子トイレ問題が発生するかというと、男子が個室トイレに安心していけるための環境作りができていないことが原因でしょう。

男の子も女の子もトイレに行くのは当たり前だし、個室に入るのは当たり前で、逆に個室トイレに行かないことの方が健康にも悪いという認識を、クラスのみんなが共通にもっていれば、この問題は発生しません。

この共通認識を持った学級を作るのは正直難しいですけどね。授業中でも自由にトイレに行ける環境を作って、授業中にみんなに見られないように、個室トイレに行ってもらうくらいしか、有効な対策はありませんでした。

これと同様に、わたしの日本語発音で英語を発表した時も、はずかしいと思った原因の一つに、「発音が下手だと思われたらどうしよう」「まちがったらどうしよう」という思いも、思春期独特の恥ずかしいと思う気持ち以外に、きっと感じていたことでしょう。

個室トイレ問題同様に「答えをまちがうこと」に対する、はずかしい意識を持っていたことは確かです。

このことは、授業の中で答えをまちがうことはあたりまえで、まちがうことによって正解に近づくとともに、まちがったという体験から学ぶことができるという、授業の基本的な考え方が醸成されていなかった学級環境も原因のひとつだったと思います。

一般的に、教師が一方的にずーっと話し続けている授業を受け続けている子どもたちに多い考え方です。

子どもたちに授業は自分たちで作るものという基本的な考え方が育っていないので、自分が主体になるはずの授業なのに、まちがってはいけない、はずかしい、とプレッシャーに感じます。

子ども主体となって授業をすすめていくためには、子ども同士の会話やつぶやきを中心に授業がすすんでいくことになり、マクロな可能性から絞り込んでいく過程の中で、まちがった回答をヒントに、正解に近づいていくのは当然のことです。

教室は子どもが自由に発言できて、感じたことを発言する中にはもちろんまちがいもあり、まちがいの先にこそ本当の真実があるという大前提が、クラスメイトの中で共通認識としてあれば、思った以上に笑われてしまうという、思春期のわたしのような結果にはならなかったことでしょう。

英会話に限らず、教育現場における子どもの主体性を引き出すためには、子どもが創り出す授業構成というのは、教育効果を最大限に発揮させるために、教育制度や教育手法よりなにより重要なことだと思います。


2つ目の理由として、日本人独特のつつましさという特性をあげてみたいと思います。

日本人の特徴として、欧米と比べて自己主張をしないことが多いです。一方集団の規則を守り、個性を抑えて集団に合わせてて存在することが得意です。

教育現場に置き換えてみると、このことは同時に授業の主体者であるはずの、生徒が方が遠慮してしまい、自分のために用意された授業のはずなのに、積極的に授業に参加できないという場面をよくみかけます。

美徳であったはずのつつましさから、自分より集団を優先してしまい、自分の思っていることが話せず、感じたことを表現できないからです。

せっかくネイティブ講師の体験型の授業であっても、集団の中の自分の立ち位置ばかりを意識してしまい、その貴重なネイティブの英語に触れるというチャンスを、中学生のころのわたしは逃してしまったことになります。

一方確固たる自分を持っていて、自分の意見を主張できることが評価される欧米やお隣の国韓国では、このような貴重な体験学習の機会を生かすことができるだろうし、主張するスキルがあるからこそまちがった意見でも、堂々と言える環境があるのではないでしょうか。

日本人のつつましさは美徳として、世界に誇れることではありますが、教育現場では主人公として積極的に授業に参加することこそが、現在の教育施策や教育手法を生かす前提条件であるような気がします。

英語を話せるようになるためには、日本の教育体系の大きい問題に目が行きがちですが、日々の授業をひとりひとりの生徒が、自分が主人公として授業を創っていくことが、教育効果を高めることになるのではないかと思いました。

 

教室は安心できるところで、遠慮することなく、安心して自分らしさを十二分に発揮できるところ、という認識を生徒に十分に浸透すれば、日本もまだまだ海外との競争に負けない、よい人材が育つのではないかと思うかえるがおなのでした。

なんか、最後のほうはいつものように、「わかりにくーっ!」っと思いつつ、今回のかえるがおはおしまいです。がっくしっと。