忘れもしないある日のことです。
僕らは仕事で
消防署の見学へ行きました。
事前の消防署の交渉も
しっかりおこなって
後は当日を楽しみにするばかりです。
そんなときに
変な噂を耳にしました。
消防署に見学へ行くと
誰かひとりをはしご車に
乗せてくれるというのです。
はしご車というとあのはしご車です。
火事の時にビルなんかの
高いところに取り残された人を
助けるために
たかーくはしごをのばす
あのはしご車です。
その話を聞いたとたんに
僕は寒気がぞくぞくっとするのを
感じないではいられませんでした。
火事でもなく、異常事態でもない
平和な昼下がりの消防署見学に
なぜはしご車が出動しなければならないんでしょう。
はしご車というのは命が危険な状況だから
何十メートルの高いところで
あの心もとないかごの中に乗れるんです。
なんにもない平和な時に
何が好きこのんではしご車に
乗らなくてはいけないんでしょう。
消防署さんサービスのしすぎです。
そんなサービスをするくらいであれば
火事の時に、放水する水を
いつもより20%増しにしております、
なんて言いながら火事を消すとか
非常事態で困っている時に
サービスをしてもらいたいです。
こんな平和な時に
よけいなサービスは
ごえんりょさせていただきますっ。
とでも言いたい気分です。
その心配も現実のものとは
ならないことがわかりました。
先輩のおばちゃんが
「去年もわたし乗ったから、今年も乗るー。」と
おばちゃん達の会話の中で豪語しておりました。
これではしご車体験は
僕にはまわってこないようです。
安心して胸をなで下ろしました。
いよいよ当日です。
当日はあいにくの空模様でした。
今にも雨が降ってきそうです。
しかも風がとっても強い日でした。
ひととおり消防署を見学して
署員の方に質問コーナーがありまして、
それから消防の服をかわりばんこに
着せていただき
記念撮影なんかをしておりました。
署員の方によりますと
これだけ風が強い日は
はしご車が横倒しになるおそれがあるとかで
はしごをのばすことはできないと
しっかり質問コーナーで語られていました。
これでもう安心です。
はしごコーナーはなくなったので
僕に恐怖のはしご車体験がまわってくることは
ぜーったいにありません。
よかった、よかったと
リラックスしておりました。
そのときでした。
消防署員の方が
話をされました。
「こんな風の強い日は危険だからはしご車は使わないんですが、
せっかくみなさんに着ていただいたので
今日は特別サービスで、はしご車に乗ってもらいまーす。」
あのね、
だからそんな特別サービスは
いらんっちゅうに。
なんでそんな危険な思いをして
消防署を見学しなければいけないんでしょうか?
風の強い危険な日でしたので
僕は早々とご辞退させていただく旨を
心の中でかたく決意しておりました。
しかもはしご車体験は
あの先輩のおばちゃんのはずです。
僕であるはずがありません。
そのときです。
一緒に見学している大勢のみなさんから
声があがりました。
一瞬我が耳を疑いました。
その声はしっかり僕をはしご車体験に
推薦する声だったのです。
その声をきっかけに
僕を推薦するコールがわき上がってきました。
大合唱です。
これは異常事態です。
まずいことになってしまいました。
でもおばちゃんが乗りたいって言ってたことを
忘れてはいません。
ここは冷静さを装って
おばちゃんに確認します。
「乗りますよね。」
するとおばちゃん
「ううん。」
うそー。あんた乗るって言ってたじゃん。
何言ってんの?
僕は大勢のコールの中
呆然と立ちつくしてしまいました。
次の瞬間気がついた時には
もう消防署員の方に両脇を
抱えられていました。
これは夢であってほしいですが
夢ではありません。
大勢のばいばーいの声の中
僕は大空の中へ消えていきました。
見ている人がどんどん小さくなりました。
そこには作り笑いで手を振っている僕がいました。
消防士さんと2人で空のランデブーです。
消防士さんはこわくならないように
常に話しかけてくれます。
「このはしご車はですね、
東京で3番目に高いはしご車で
めったに乗れないですよー。」
よけいなことまで教えてくれました。
東京で3番目に高いはしご車なんて
よけいにこわくなる話です。
そんなに高い必要は全くありません。
かごの中に乗っていると
いろいろな方向から風が吹いてきます。
どうも下からも風が吹きつけてくるようです。
なぜでしょう?不思議です。
「あのー、なんで下から風が吹いてくるんでしょう?」
震えた声で消防士さんに質問しました。
消防士さんはあっさり答えました。
「それはですね、下があみだからです。」
その答えにぎょっとして下を見てみると
確かにあみあみでできています。
下の景色もすべてすけすけです。
頭がくらくらしてしまいました。
もうよろけそうです。
上空へあがっていくうちに
どんどん風が強くなり
かなり激しく揺れはじめました。
そりゃそうでしょう。
本来今日は風が強すぎて
はしごをのばせない日に
無理矢理はしご車に乗っています。
その激しい揺れに合わせて
なにか声が聞こえます。
「おーっ。うっ。」
誰の声でしょう?
ここは冷静になって考えてみましょう。
この上空50Mには僕と消防士さん
そして飛んでる鳥しかいません。
僕は声を出していません。
僕が声を出していないということは・・・。
まさか・・・。
声の主は・・・。
その声の主は消防士さんでした。
うそっ、消防士さんもこわいの?
僕は消防士さんに疑いのまなざしを
向けました。
すると消防士さんすかさず
「こんな風の日はこわいですねえ。」とのんきなお答え。
あんたもこわいんかい、と突っ込みたくなる気持ちを
必死で押さえ、
上空50Mで引きつった笑いでふたり
見つめ合うしかありませんでした。
聞くところによると
はしご車をいつも使う時には
ビルか何かに立てかけて使うとのこと。
こんな何にもない上空は
消防士さんでも経験がないそうです。
上空ではふたりでそんなになっているにもかかわらず
無情な無線連絡が
地上の平和な本部から入ってきました。
「えー、サービスのため旋回します、どうぞ。」
だからそんなサービスはいりません。
はっきりいっときます。
上空の2人の気持ちは同じでした。
それを知ってか知らずか
地上では過剰なサービスをはじめたようです。
サービス旋回がはじまりました。
地上50Mです。
ただでさえ風が強くて揺れが大きいのに
旋回しはじめたらますます激しい揺れになりました。
もう震度5以上はあることでしょう。
2人でしっかりゴンドラの縁に
しっかりつかまっていないと
もう一生のおしまいです。
こんなとこで短い生涯を終えたくありませんので
2人とも必死です。
消防士さんが話しました。
「今無線が下から入りました。
こっちに見えるあの白い建物が
あなた方の職場だそうです。」
なんとのんきな連絡でしょうか?
こっちは必死で自分の命を守るために戦ってるのです。
ああそうですかという心境です。
そんなの見ている余裕はありません。
自分の命を守るのに必死です。
その旋回が長いこと長いこと
5分くらい必死にしがみついていて
やっとゴンドラが止まりました。
はしご車の旋回ってなかなか
イメージがわきにくいと思います。
いうならば
観覧車は縦にまわりますよね。
観覧車の一番高いところで高さを維持したまま
横にまわると考えてください。
それに乗っているのは
すけすけのかごで、
プラス震度5の地震だと思ってください。
すけすけのかごの縁は腰ぐらいの高さです。
気を失って倒れたら真っ逆さまです。
一応命綱はかごの縁につないでありますので、
真っ逆さまではなく、
宙づりになりますねえ。
そんな感じです。
5分くらいの空の散歩だったでしょうが
僕には何時間にも感じました。
そしてやっとようやく
母なる大地に返ってきました。
大地に降り立っても足はがくがくです。
スペースシャトルで生還した方々も
すぐに立つことできないですよね。
あれもひょっとして
高さにふるえてしまって
足ががくがくして立てないからじゃないかって
本気で思ってしまいました。
でも無事に帰ってきました。
無事に帰って来た喜びと
はしご車にはもう2度と乗るまいという
固い決意に浸っていると
ある子がとことこっと僕に近づいてきました。
「あのね。さっきはしご車に乗った時
手を振って笑ってたでしょ。
あのときね、かおがひきつってたよ。」
「あ、そう。」
僕は急速に全身の力が抜けていくのを感じていました。