こん○○は。かえるがおでです
乃木坂46の中元日芽香さんの本格復帰がびっくりするくらいの
サプライズで決まってから、すでに3日が経過しました。
サプライズな出来事を事実としてとらえて、自分の中で解釈するには
3日間というのは十分な時間です。
その3日間が過ぎた今の心境は、不思議なんですがとっても幸せな気持ちなんですよ。
生活が幸せに満ち溢れているというか、心穏やかなそんな感じです。
そりゃ嫌なことや、こうなりたいという将来の目標もあるのですが、
不満や不安をはるかに上回る、幸せな雰囲気に満たされてしまっています。
これまで50記事と少し、「かえるがお」というブログを書いてきましたが、
ブログに文章を書くエネルギー源が、どうも心を動かされる出来事だったようで
幸福感に浸ってる現在、あんまり積極的に書きたい衝動に駆られません。
これまでは、どうしても書きたかった記事があったのですが、
今では記事として書きたいと思うものもありません。
今回は自分にとって文章で表現することって、どんな意味があるんだろう、と考えてみて、結果を整理してまとめて残しておこうという、備忘録要素が高い
「表現するということ」というお題で記事を書いてみたいと思います。
思いをかたちにすること
普通に生活している場面、場面において、たくさんのことを考えて行動して
生活をしています。
1日に考えたことを原稿用紙にすべて書き出してみると、
きっと原稿用紙50枚では足りない量を考えながら、生活しているかもしれません。
毎日毎日、その瞬間瞬間を考えて行動していたとしても、その瞬間が過ぎてしまうと
その時にどう思って、どう感じて言動したのかについて、残念ながら覚えていません。
きっと頭で考え、心で感じただけだったからだと思います。
そして、そんなことを考えているうちに、
また、しっかり考えなければいけない次の瞬間がやってきてしまいます。
せっかく一生懸命考えたことでも、はじめからまったくなかったかのように
その瞬間が過ぎてしまえば消えてしまうんですね。
それが365日生活する限り、ずっと続いてしまいます。
結構悩んで決めたことや、とてもつらかったこと、ニュースを見て思ったことや
起こった出来事から感じたことなども、頭で考え、心で感じたままであれば消えてしまいます。
そのためある一瞬だけでもいいから切り取って、文章で表現しておくことで、後で振り返って思い出すことができるようにすること、これが表現することです。
わたしの考える表現することは、頭で考え、心で感じた思いを、文章というかたちに残しておいて、あとで振り返ることができるようにすることです。
創造するということ
日々生活しながら考えることって、
「そろそろあれやんなきゃなー」とか「今日はあったかいなぁ」というように
文章として頭の中で考えることもあれば、
「危ない!」とか「やったー」とか単語の羅列で考えたりします。
一瞬一瞬で考えたことを、そのまま文章で残したとしても、
前後の説明が足りなかったり、なりゆきがわからない場合には、
後で読み返しても理解できません。
後で読み返したときにわかるように、前後に文章を付け加えたり、
そこに至るまでの過程について、あらすじを加えたりすることが
私が思う、創造することです。
先ほど「危ない!」というワードを出しましたが、今日こんなことがありました。
ちっちゃいよちよち歩きの男の子が、すれ違いざまにじーっとわたしの顔を見ていました。
だいたいちっちゃい子にじーっと見られるのは慣れているので
笑顔を振りまいて通り過ぎようとすると、
よちよち歩きだから、私を見すぎてつまづいて、こけそうになりました。
そこで「危ない!」と思ったんですが、
こける直前におかぁさんが見事その子キャッチして、倒れないですみました。
その男の子はおかぁさんに抱きかかえられて、
おかぁさんの腕の中で満足げに笑っていました。
今日はとってもあったかい、春が近そうな日だったので、
抱き上げられた男の子の笑顔が太陽の日差しを受けて、
とってもまぶしく見えました。
「危ない!」と感じた瞬間の前後の出来事を説明すると、ひとつのショートストーリーのように思えてしまいます。
わたしレベルではいい感じの物語にはなりませんが、
思ったことを表現することで、ちょっとした作品になるという例です。
感動したことを歌詞にして、曲をつけて楽曲にしようとか、
それを歌って表現しようということも、創造することです。
表現するということは創造すること、という意味は、
大げさな意味ではなく、表現することでちょっとした作品になるという意味です。
ひとに認められたいと思うこと
コミュニケーションの基本は「聞くこと」と言われています。
ただし、聞いてばかりの一方通行だとコミュニケーションは成立しないので
まずは相手側に自分の気持ちや考えている自己を、開示をする必要があります。
自分はこう思っているけどどうかな?とか
あの番組おもしろかったよね、とか
たわいのないことでも自分の気持ちを表現することで、
はじめてコミュニケーションが生まれます。
表現したことに対して、相手の感想や思いが表現されて
はじめてコミュニケーションが成立します。
そして究極の目標として、自分の気持ちを表現してコミュニケーションを行うことで
相手の共感を引き出したり、相手に共感を表現したりして
自分の承認欲求を満たすこと、これが相手に認められたいから表現するわたしの理由です。
人間は社会性の動物と言われるだけあって、人間関係が希薄になったとはいえ
完全に1人で生きていくことはできません。
都会の片隅で1人きりで生活することにならないために、
認められたいとか、共感したいと思う自分の弱さなのかもしれません。
究極の認められたい承認欲求を満たすものは、このブログです。
たわいのない考えをつたない文章にしているだけなのに、
多くの方に読んでいただいて、共感してもらえることが、
とてもうれしいと思います。本当にありがとうございます。
ただ、乃木坂メンバーの記事を書いてみてわかったことは、
わたしは乃木坂ファンの人たちと、乃木坂メンバーについて「いいね」と
思うポイントがどうやら違うみたいです。
Twitterのフォローしている方たちは、乃木坂メンバーの雑誌や写真集のきれいな様子を
たーくさんアップされているんですよ。
私はというと、番組内でのそのメンバーらしいおもしろいシーンや、
ほっこりするシーンや感動するシーンだけで、
ここまで、きれいなシーンだからという理由で
記事にしたことが1度もないことに気づきました。
いいと思うポイントが違うってことは、乃木坂ファンに認められていないっていうことになりますよね。残念でっす。がっくし。
少し言い訳させてもらうと、きれいなメンバーの様子って、やっぱり版権の問題や実際に現在販売されているものが多いんですよね。
楽曲の著作権でもめたことがあるので、あんまり著作物には手を出したくないんですよ。いいわけなんですけどね。
ということで、雑誌のきれいなシーンは今後もかえるがおには、きっと登場しないかと思います。ごめんなさい。
ひとを傷つけるかもしれないということ
表現する場合、最も気をつけなければいけないことは
自分の表現したものによって、相手を傷つけているかもしれないという視点です。
例えば言葉であれば、その場で跡形もなく消えてしまうので、影響が少ないのかも
しれませんが、ブログのように文章にすると、消さない限り残ってしまいますので、
読み返すことができて
何度も何度も繰り返し、ひとを傷つける言葉の暴力になる可能性があります。
しかもブログは、自分の意志でどうしようもないくらいに、
インターネット上に拡散され、そしてその影響を消すのは実質できないと
言わざるを得ません。
わたしもインターネット上に、事実でないことを書きこまれた経験があります。
そのこと自体事実ではないとしても、その文章を読んだ人にはその文章以外の
判断材料がないため、事実と思われても仕方ありません。
そしてその文章は今も、インターネット上に残っています。
書き込んだ人はおもしろ半分だったかもしれませんが、書いた人の
そのときのおもしろ半分な気持ちで書いた書き込みだけが
書いた人の記憶からも忘れ去られ、記録としてインターネット上で残り続けるのです。
そう思うと怖いです。できればせっかく自分が作った文章で、誰も傷ついてもらいたくないという願いをもって、文章を書いているつもりです。
それでも、私の乃木坂メンバーの文章を読んで、
その部分だけをとらえて、メンバーのファンの方やメンバー本人の方にとって
不快な文章があるかもしれません。
でも、私は第三者から見て、評価を下げる意図で記事を書いたことはありません。
こんなことがあって笑ってしまいました、という文章もよくありますが
そのメンバーらしく微笑ましい場面だったということを意図して
紹介している場面です。
やっぱり自分らしさというのが、ほかの人が持っていない一番の魅力ですからね。
そのメンバーらしさが見える瞬間はすごいなと思ったり、尊敬できる瞬間でもあります。
ただし基本スタンスとして、乃木坂に限らず、すべての記事において、
記事の中に登場された本人から削除依頼があった記事については
すべて削除しますけどね。
ある日急に記事なくなっちゃったなーって思われたときには
きっと削除しているかと思いますので、あらかじめご了承ください。
生きているということ
毎日生活していると、意図しないいろんな出来事が巻き起こります。
みんなそれに対処して、対応して乗り越えてると思うだけで、尊敬してしまいます。
わたしはまーったくだめです。ちょっとのことで凹んだり、最近はなぜかしらないんですが、自分のふがいなさに、自分で機嫌がわるくなってしまうことさえあります。
まぁそれでも自分の人生は自分で切り開くしかないので、その場その場で一生懸命考えて、将来のビジョンを目指して生活しているのですが、
たまにはむしゃくしゃしてラーメンをおなかいーっぱい食べたいときとか、
1日中ゲームばっかりやっていたい日だってあります。
まぁ抽象的かつおおげさ過ぎて伝わらないかもしれませんが、
「かえるがお」ってブログに愚痴を書いたり、乃木坂見て感動したとか、涙を流したと
書いている以上は、いろいろあっても、自分なりになんとか生活できているという意味です。
ちゃんと生活できているから、いろんな出来事に感情や考えが生まれ表現できている。
それを大げさに言うと、表現するということは生きるということ
というか生きているということではないかと、自分なりに思っています。
生かされているということ
実際に文章で表現するという過程には、その時の描写を文字で表す必要があるため、
細かく文字で情景描写をします。
文字で情景描写をするということは、その表現する場面を俯瞰して見て表現することが必要です。
この俯瞰した視点で見ることが、自分に起こった出来事なのに、客観化できる瞬間なのではないかと思います。
例えば、お正月に後ろから自転車にぶつけられたことを書きましたが
文章として情景描写をしながら書いてみることで、
よりたくさんの通勤していた人に目撃されたことに気づき
改めて余計に恥ずかしくなるというのが、客観化です。
客観化してみてわかることは、まぬけな出来事の記事でも必ず自分以外の登場人物がいて、決して自分ひとりの力だけで生活しているわけでないことがわかります。
むしろ、まわりの人たちに支えられて自分の日々の生活が送れているとすら感じてしまいます。客観的に自分の生活を振り返ることって、自分が主体になって暮らしている中ではなかなか難しいことです。
私にとっては表現して情景描写をしない限り、考えることが困難なことなのかもしれません。
そのため文章で表現することで、周りの人たちに生かされていることに気づきます。
また、まわりの人に活用のほうの、活かされていることもわかります。
へんな思想や宗教を信じているわけでもありませんが、
田舎っぺなのに、なんとか都会で生活できていることとか
一歩間違えば重大事故の加害者になりそうだったこともあったのに
軽傷ですんだこととかを客観化し、文章に表現してみると、
見えない力で、未来に導かれているのではないかと
思ったりすることもあります。
思いを文章に表現することは、自分のできごとを客観化し、
周りに生(活)かされていうちうことを再確認する作業にもなります。
まとめ
まとめますと、私にとって表現するということは、
表現するということ
表現するということは思いをかたちにすること
表現するということは創造するということ
表現するということはひとに認められたいと思うこと
表現するということはひとを傷つけるかもしれないということ
表現するということは生きているということ
表現するということは生かされているということ
だと思います。
いかがでしたでしょうか。今日の「表現するということ」という記事。
自分で読んでみて、率直な感想を表現しますと…
ほとんどなーんにも中身がないにも関わらず
大げさに「生きる」「生活する」「考える」の連呼で
いつものようにたくさんの文字を使っての長文になるしまつ。
わたしだったらぜーったいに読まない部類の記事になってしまいました。
すみませんです。
本当はこんなまじめでしかくしめんの性格ではなく、結構ぐうたらな性格です。
父親はわたしの性格を「ずぼらでのんき」と表現します。
まさにその通りだと思います。
読み返してみると、読むに値しない記事なんですが、
まぁ書いたからにはアップだけしときます。
ときどきこんな記事書きますよね。
あの「ミジンコの嘆き」もこんな記事だったような気がします。
自分では長文の最後をちゃーんとまとめたつもりになっていましたが、
読み返してみると、最終的には谷川俊太郎の「生きる」のパクリみたいな
文章になっておりました。
だめだこりゃ笑
本日は読み飛ばし推奨記事でした。 ちゃんちゃんっと。