乃木坂46の名曲の中に『やさしさとは』という楽曲があります。
芸能界を引退された橋本奈々未さんの初センター曲で、7thシングル『バレッタ』のカップリング曲として発表された曲です。切なく歌い上げる等身大の乃木坂メンバーに触れることができる、とても素敵な楽曲です。
この楽曲の中でやさしさとは、こう述べています。
やさしさとは 何なんだろう?
君に駆け寄る速さか
それとも落ちた涙を一緒に拾うことか
(中略)やさしさとは 何なんだろう?
君を慰めることか
あるいは涙の理由を何も聞かないことか
出典:乃木坂46『やさしさとは』
今回は自分にとって、「やさしさ」とはいったい何なんだろうか?と考えてみて、自分の考えをまとめてみただけの記事です。
乃木坂以外の記事は読者のみなさんの需要がまーったくないのはわかっているのですが、今回は自分の未来の成長を見据えて、現在の思いをまとめてみたいと思います。
いつものように自己満足の記事で申し訳ありません。
やさしさとは
まず、やさしさとは何だろう?と自問自答することになったのは、NogizakaJournalさんの記事を読ませてもらったことが、きっかけでした。
やさしさを疑い、やさしくなりたくない齋藤飛鳥~「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 vol.3」を読んで~ | Nogizaka Journal
この記事は「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46 vol.03」にて連載された齋藤飛鳥さんのエッセイ『齋藤飛鳥、書く。』において、やさしさをテーマに書かれた内容にエッセイについて、作者の方が感じた思いを綴られた、いわば飛鳥ちゃんに対するアンサーソングのような記事です。
作者の方は書店員をされているそうで、たくさん本を読まれているだけ語彙が豊富で、同じようにたくさん本を読まれている飛鳥ちゃんが綴る文章から漂う空気感と、記事の空気感が似ているように思います。どちらも洞察がとても深い記事です。
実際に飛鳥ちゃんの貴重なエッセイも読ませてもらおうと、いまさらですが「別冊カドカワ 総力特集 乃木坂46」のバックナンバーをすべて取り寄せて読ませてもらいました。
飛鳥ちゃんの感性で綴る文章の方もとても魅力的で、そして精神的にわたしよりずっと成熟していて、そこから見える景色を綴る文章に、感銘を受けるエッセイでした。是非機会があれば、また連載を初めてもらえるといいなーと思います。
ただ、かなり忙しいでしょうから、単なる1ファンのわがままな願望でしかないですけどね。無理して仕事をこなすことより、大切な自分を一番に大切に思ってほしいと思います。
NogizakaJournalの記事を書かれた黒夜行さん、そして齋藤飛鳥さんみたいに、うまく自分の気持ちを上手に表現することはできないですが、レベルがひくーいわたしなりに現在の道標として、恥ずかしいですが「やさしさとは」という課題と、ちゃんと向き合ってみたいと思います。
やさしさと優しさ
わたしにとってやさしさは「やさしさ」であって、漢字で表現する「優しさ」については、現在まだ理解ができません。確かに国語科の学習において、「やさしい」という言葉に対して、表記をひらがなの「やさしい」のみで統一していたような気がします。
ひらがな好きのわたしとしては、やさしさを表現するには、ひらがなで並ぶ「やさしさ」という文字列が、自分の持つやさしいイメージを表現するには合ってるように思います。
より高度な後になってから気づくという意味を持つ、漢字で表現する「優しさ」については、まだまだ明確に理解できなくて、成長が遅いなりにも今後経験を積んでいくことで、学べるのかもしれません。
やさしさは「やさしさ」と表記したい
やさしいという形容詞
では、「やさしさ」という言葉の原型である「やさしい」という言葉について考えてみると、「やさしい」とは形容詞であることがわかります。
やさしい"人"、やさしい"行動"など、人や言動の状態を説明する言葉です。そのため主体は人や言動にあり、その状態がやさしいさまを表した言葉のように思えます。
ではその人またはその言動をやさしい、やさしくないと、どうやって判断したらよいのでしょうか。
「やさしさ」とは人や言動の状態を表す言葉
やさしさとは感性
残念なことに内面のやさしさは、視覚として捉えられるものではありません。そのやさしさが言動となっててかたちとして表れて、はじめて周りのひとはそのやさしさに気づくようになります。
いや、厳密には気づかないかもしれません。その言動で表現されたやさしさを、受け手の側はやさしいと気づく場合もあるでしょうが、一方では普通の言動だと思ったり、ましては何か裏の意図があるんじゃないかという印象を持つ人もいるかもしれません。
同じやさしさを起点とした言動であっても、受け手の受け取り方次第で、どうにでも解釈することができます。
同時に発信する側のやさしさの表現方法もひとそれぞれです。同じ表現であっても、受け取る人からやさしさを感じられやすい表現方法や、感じられにくい表現方法もあります。
やさしさをかたちにする表現方法でも評価が分かれるし、受け取る側によっても評価が分かれることになります。
そのためここでは、やさしさとは表現するしない、受け取る受け取らないに限らず、その人の心に芽生えた段階でやさしさは成立していて、心に芽生えるまでのその人のものの受け取り方、言い換えるとその感じ方、感性自体をわたしは「やさしさ」と表現したいと思います。
やさしさを言動というかたちあるもので表現しても、表現の仕方や受け取り方で、伝わらないことが多い。そのため心の感性で受け取って芽生えた気持ちや、そのものの受け取り方(その人の感性)自体を「やさしさ」と言いたい。
感性と認知
「認知」という言葉があります。
Twitterを眺めていると、乃木坂のメンバーに存在を知ってもらってるファンの方がいて
いいなー、いいなー、俺の存在なんか、だーーーれからも知られてないから
いいなー、うらやましいなー、メンバーから認知されてていいなーと思う、あの認知ではありません。
心理学用語の方の「認知」です。
ある現象のことを自分で感じて理解するまでの過程のことです。
この自分が思う現実である認知と、実際の現実のずれがマイナス思考の原因であることは、心理の記事の中で何度か書かせてもらいました。
性善説ではありませんが、自分の中の正義をみんな持っているのと同じように、どんな人でもレベルは違ったとしても、ある程度の自分が思う自分なりのやさしさを、誰しも持っているのではないかと思います。
その心に芽生えたやさしさを相手が理解するためには、
やさしさという感性を表現してかたちにすることと、
同時に受け取る側のやさしさを認知する感性
によってはじめてそのやさしさが伝わり、理解できるようになると思います。
やさしさが相手に伝わるためには、やさしさをかたちとして表現することと、受け手はその表現からやさしさを認知することの両方が必要
それは本当のやさしさなのか
繰り返しになりますが、やさしい思いや感じる心、そしてやさしい気持ちを視覚で見ることはできません。
その気持ちが動機になって、言動というかたちのあるものになったときにはじめて、視覚で見て感じて共感して理解できるものとなります。
やさしさは感性と表現しました。しかしながら、本来のやさしい感性、やさしい思いを言動というかたちがあるもので表現して、受け手の側もそのやさしさを認知できるだけの気持ちの準備ができていたとしても、またしても残念ながら相手に伝わらない場合があります。
一見同じように見えるやさしさを表す言動であったとしても、真の目的が違う場合もあるからです。受け手は表現者の、真の思いを把握して、本当にやさしさ起因の言動なのかどうかを感じて、振り分けする過程が必要です。
この場合のやさしさをかたちとする似たような表現方法を、今回は3つのパターンに分類してみたいと思います。
"思いやり" "打算" "愛ある厳しさ"の3つです。
やさしい言動の種類
まず1つめの"思いやり"とは、心にあるやさしい感性が相手のことを思い、かたちに表して表面化する、やさしさ由来の相手を思いやる言動を、今回は"思いやり"と表現したいと思います。
"思いやり"とはやさしい言動の基本となる言動であるため、一般的にはこの言動を見てやさしいと気づくことになります。感性で感じるやさしさをストレートに言動に表しやすい分だけ、相手側に伝わることも多いやさしさの表現方法です。
次は一見思いやりに見えるけれども、本当の目的は"思いやり"とは正反対にある言動のことを、今回は"打算"と表現したいと思います。
例えば目上の人にとても丁寧に応対するとします。
これがやさしさ由来の相手に対する思いやりであればいいのですが、中には目上の人に気に入られるようにするといいことがあるかも?と考えての言動であったり、目上の人だからやさしくしてるだけで、後輩や立場の弱い人に対する態度とは全然違う、という考えに起因する言動の場合もあります。
言動だけを見ているとやさしさ起因の思いやりに似ていますが、本来の表現者の意図は全く別のところにある、まちがってやさしさだと勘違いしかねない、まぎらわしい言動がこの打算です。
また、一見言動からはやさしさを感じることは困難ですが、本当は深いやさしい愛情にあふれた言動もあります。
例えばちいさい子が無邪気に走っていて、つまづいて倒れたとします。
傍らでその様子を見ていても、あえて手を差し伸べないおかあさんもいます。
その場面だけを取り上げると、そのおかあさんは冷たい人に見えるかもしれません。でもわが子を一番に思わない親はいません。
泣いても自分で立ち上がれる人に育ってほしいと願い、わが子が泣いていても身を切る思いで、わざと手を出さずじっと自分で立つのを見守っている親もいます。
やさしいという気持ちが、直接的な行動や表現にあらわれなくても、誰よりも深いやさしさを持っている例です。これを"愛ある厳しさ"と表現してみました。
やさしさに見える言動の種類
"思いやり" "打算" "愛ある厳しさ"
やさしい言動の見極め方
では、その言動の本当の意味は"思いやり" なのか、あるいは"打算"なのか それとも"愛ある厳しさ"なのかを、実際に見て感じて、本当の意味を見極めなければいけません。
実はこれが本当にむずかしいんですよねー。
本当の気持ちの意図がわからないから、誰しも人間関係に悩むことにつながるのだと思うのですが、個人的には本当の意味の見極めに失敗ばかりしていまいます。
信頼と受け取ってしまって裏切られてしまったり、その言動が打算による言動だったことで失望することも正直何度もありました。
逆に本当の思いやりだったにも関わらずうがった見方で疑ってしまい、結果的にはその思いやりを失ってしまうことだってありえます。その場合「あの人は本当に思いやってくれてたんだ」と気づいた時には時遅く、後悔だけが残り続けることになってしまいます。
いまだに、何がやさしさに起因するのか、そして何がにせもののやさしさによる言動なのか判断する正しい方法は、わたしレベルでは難しすぎてわかりません。
でも、相手の思いやりを感じることができる準備、言い換えると「やさしさの感受性」というものを、自分は大切に持ち続けていたいと思っています。もし、その言動から感じたやさしさがにせものであっても、だますよりだまされたほうが後悔しないからです。
疑ってしまってあとで本当の真実に気づいてしまうことは、自分の性格的にずーっと後悔を引きずってしまいそうで、まずは後で振り返って後悔することがないように、信じるところから始めてみようと心掛けるようになりました。
逆に自分の身を守るためには、まず相手のそのやさしさが本物かどうか疑うことも、自分が傷つかないために、必要なことのように思えます。
受け入れるのかそれとも身を守るのかは、その人の考え方次第で、その方法がその人なりのコミュニケーションの仕方と呼べるのかもしれません。きっとこれもまた、正解と呼べる方法はないのでしょう。
やさしい言動を見極める方法に正解はない
やさしさは共感すること
わたしにとって、やさしさ本体は目には見えないものです。そしてその行動から、やさしさは目に見えるかたち"思いやり"や"愛ある厳しさ"として表現されることについても、考えてきました。
ただ、多くの人の心の中芽生えたやさしさとは、その大半がかたちとなって表面にあらわれるものではありません。多くの人の心で感じたやさしさは多くの場合表現されることなく、まるで何もなかったかのように時間とともにその思いは消えていってしまいます。
時間の流れの中で、人々の心の中に芽生えたやさしさに、少しでも気づくことができるために、わたしが大切に感じているのも、またやさしさを感じる心、自分なりの「やさしさ感受性」です。
論理的な説明は一切できない荒唐無稽な話ですみませんが、アンテナを張り巡らせていると、突然そのアンテナに相手のやさしさを受信できることがあります。
やさしさを持つ人との周波数が偶然に一致した時に、言動に表面化されなくても感じられることが、まぎれもなくあるのです。もちろん、そのやさしさが単なるまちがいや、自分の発する感受性に妨害された勘違いだったりすることもあります。
自分ながらに思うのは、他の人と比べて20年くらい成長が遅く、そして精神年齢が幼いわたしであっても、中にはわたしレベルの感性らしきものに共感してもらえる人さえいます。
本当にありがたいことで、この共感してもらえることが、現在ブログで記事を書き続けることのエネルギー源になっています。
やさしさはかたちにすることで共感につながる。また直接的なかたちにしなくても、感性で共感できることがある。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は現時点で自分か考えるやさしさをまとめてみて、記事というかたちにして残してみました。
きっかけとなった黒夜行さんや飛鳥ちゃんのように、頭脳明晰でかつ論理的で精神力が高い文章は、残念なことにわたしレベルでは書くことができません。そのため、飾ることなくわたしなりに現時点の立ち位置を、感覚的な文章ではありますがまとめてみました。
きっとわかりにくい内容も多かったと思います。でも自分にとっては自分の立ち位置を明確にできて、「やさしさとは」という課題に向き合ったことは、とても有意義なものになりました。ジコチューなひとり語りのながーい記事に最後までおつきあいただき、本当にありがとうございました。
わたしレベルもいれば、中には高いレベルの無償の愛情というやさしさと、勇気ある思いやりという行動力をもった人もまぎれもなく存在します。
飛鳥ちゃんのおかあさんもまたそのひとりです。今回の記事の副産物として飛鳥ママの感性で、普通の親子以上にやさしい愛情に包まれて育った飛鳥ちゃんが、どうしてそこまでやさしい感性を持っているのか、その理由もわかってきたように思えました。
一方わたしはといえばまだまだ発展途上で、自分自身が向上するためにはさらなる努力が必要です。飛鳥ちゃんレベルには及びませんが、少なくとも少しでもいいからやさしくあり続けたいと願うかえるがおでした。
気分屋ですから継続的なやさしさを持ち続け、それを誤解されないように表現し続けることは、残念ながらわたしには難しすぎてできないと思います。
でも、自分の感性で自分なりにかたちに表現し続けることくらいは、こんなわたしにもできるかもしれません。
まだまだ未熟な点が多すぎるので、この楽曲を聞いて楽曲のセンターでもあり、乃木坂を大樹のように支えたメンバーの、存在で表現していたやさしさの意味を学ぶことからもう一度始めたいと思います。
乃木坂46で『やさしさとは』…
出典:YouTube乃木坂46『やさしさとは』
あちゃー、やっちゃいました。乃木坂公式YouTubeにこの楽曲がなく、そのへんの拾い動画となってしまいました。やっぱりわたしはどこまでもはてしなくまぬけなようです。一応拾い動画を載せておきますが、あんまりいいことではないので、乃木坂ファンの方はちゃんと購入してから、この楽曲を楽しんでくださいねー。わたしもそうします。がっくしっと。
賞味期限が短くて消され気味なので、また消された時のために試聴も置いときますね。