みなさんにはこんな気持ちになったことはありませんか。
まわりからほめられたり、認められたりしてもなぜか心から満足できず、気持ちにぽっかり穴があいたような気がして、なぜかもっとほめられたい、認められたいとつい思ってしまうこと…
わたしの場合には、まわりの人に認められたい、みんなに好かれていたいという思いが強すぎて、無理に無理を重ねた結果、身体を壊してしまいました。
自分に自信が持てなかったわたしは、まわりの評価がとっても気になり、よい評価を得ようと無理をしてまわりの人のためにがんばりました。でもその評価は無理をした偽りの自分に対する評価のため、いくら評価されても自分の心に響くことは、残念ながらありませんでした。
そのうちまわりの人は無理に無理を重ねてがんばる状態が、普通のわたしだと思ってしまうようになり、自分が満足できるようなまわりの評価を得ようと、さらに無理をしてがんばる状態に陥ることを、このブログの中で承認欲求バブルと名付けたことがありました。
まぁだーれも覚えてないでしょうが、今回はそんなむかしのお話の、続きにあたるお話です。
承認欲求バブルから解放された後、わたしに何が待っていたのか、そして今何を感じているのかを、今回はまとめてみたいと思います。
よかったら、同じように承認欲求バブルに陥ってしまい、どれだけ周りの人に評価されても、心の中が満たされない人にとって、ケーススタディとして「こんな人もいるんだぁ、あはは笑」と思ってもらえるとうれしいです。
出典:https://item.rakuten.co.jp/tedukuristadjum-yutou/yutou161/
こうして承認欲求バブルに陥った
本来はのんきでまぬけなわたしですが、勤務先では周りに少しでも認められようと、自分の行動にターボブーストをかけた状態で懸命にがんばっていました。
確かに周りの人から、仕事ができると評価されていまいましたが、本来ののんきでまぬけな自分を評価されているわけではありませんので、たとえ偽りのターボブースト状態の自分を評価されたとしても、まったく心に響くことはありませんでした。
まわりからの評価を得ようとさらに無理を重ねて努力をして頑張りましたが、やっぱり本来の自分の姿ではないため、たとえ評価されたとしても、その評価もまた心に響くことはありませんでした。
そのうち、努力してターボブーストをかけて懸命に動いている自分を、まわりの人からは普通のわたしの姿だと思われるようになってしまいました。
それでも自信がない自分にとって、少しでも評価を得るためには、無理に無理を重ねてまわりの人の期待値を超えて頑張る必要がありました。
本来の自分ではなく、偽りの自分が認められているという、たったこれだけのボタンのかけちがいは、承認欲求バブルを生み出し、引っ込みが付かない状態まで肥大化し、結局わたしは身体をこわしてしまいました。
かけがえがない大切な健康を害してはじめて、自分らしく存在することの大切さを理解することができました。
やっとまわりの人全員から好意的に見られようという一種の妄想から解放され、気が合う人や気が合わない人がいて当たり前という、誰もが知ってる当然のことに、ようやく気づくことになったのでした。
楽曲のイメージ
Mr.Childrenが2004年に発表した楽曲に「くるみ」という楽曲があります。
個人的にカラオケでよく歌うのですが、とても高い「#4」くらいのキーで、最後まで歌いきるには声をちゃんと作って準備してこないと歌えないような楽曲なんですよねぇ。
最近は桜井さんもLIVEでキーを下げて歌っているので、原曲キーで歌うよりも、自分の声にあったキーにすると、歌っていてとても雰囲気がよいアレンジの曲になるように思えます。
きっと「くるみ」という名前の女の子への思いを綴ったバラードなんでしょうねぇ。
語弊を恐れずに言うと、桜井さんの歌詞には時々、女性好きな赤裸々でそして少し軟派な雰囲気を、個人的に感じてしまうことも多いです。
このへんは硬派になる前の前期の長渕剛さんの影響を受けてるような気がするんですけどねぇ。女性が好きで軟派な歌詞を見ると、よく似てるなぁと思ったものでした。そう思ってしまうのはわたしくらいかもしれませんけどね。
これまで「くるみ」という楽曲へのイメージは、好きな女の子へのラブソングというイメージを持っていました。
気づき
今回のかえるがおは自分の話ばかりですみません。
本当はまぬけな楽しいできごとを読んでもらっている読者の方の方が多いと思うんですよね。残念なことに今回のお話は、とことんブルーな方向に向かっていきます…
実は現在、わたしを取り巻く環境が、かつてない苦難な状況にあります。
つい口を滑らせてしまって、いつも通っているマッサージのおねぇさんにちょっぴり話してしまったところ、仕事でもプライベートでもこれ以上ないほど底辺にいるわたしの状況を聞いて、しばらく絶句して涙を流されてしまいました。
当のわたしはといえば、そりゃつらい状況ですが、みんな誰しもいつかは経験することでしょうし、同じような状況を乗り越えてこられた方もたくさんいるはずなので、持ち前ののんきさを発揮して、いくらつらくてもつらい時期ほどつとめて笑っていようと考えていました。
そんなときです、いつものように気分転換のためにドライブしていると、LIVEDVDから流れてきた楽曲がMr.Childrenの『くるみ』という楽曲でした。知ってる方も多いかと思います。
ねぇ くるみ この街の景色は
君の目にどう映るの?今の僕はどう見えるの?
※Mr.Children『くるみ』作詞:桜井和寿、作曲:桜井和寿
くるみ
ふと耳に入ってきた楽曲に、正直わたしは愕然としました。まさに今現在の自分の気持ちにぴったりで、わたしに対して語りかけられているように感じてしまったのです。
アーティストの楽曲を聴いていると(あ、乃木坂も)、歌詞が心に響いて共感できることってよくありますよね。その瞬間がこれまで何度となく聞いていた曲から、突然感じてしまったのです。
※Mr.Children『くるみ』MV
意図的ではなかったのでしょうけどだまされてしまいライフワークを失い、そして複数の不幸を目の前にしているわたしの気持ちは、まさにこの歌詞の通りでした。
ねぇ くるみ この街の景色は
君の目にどう映るの?今の僕はどう見えるの?ねぇ くるみ 誰かの優しさも
皮肉に聞こえてしまうんだ そんな時はどうしたらいい?
よかったことだけ思い出して
やけに年老いた気持ちになる
とはいえ暮らしの中で今動き出そうとしている
歯車のひとつのならなくてはなぁ
この歌詞を、より今の自分の状況の、自分の言葉で置き換えてみるとこんな感じです。桜井さん勝手にアレンジしてしまってすみません…
いまの僕はまわりの人にどう映っているんだろう
見かねた人が声をかけてくれるけれども
なぜが曲がって捉えてしまって 自己嫌悪と戦っているんだ
思い出すのはよかったときの過去の思い出ばかり
懐かしんではむなしさが溢れてくる
でも生活していくために、いつかは妥協して
世間を動かす歯車の1つにならないといけない
『くるみ』が好きな女の子に当てた歌ではなく、
自分の現状を嘆いている楽曲だとやっと気がつくことができました。
カラオケやギターで何度も何度も歌ってきたにもかかわらずです。思い込みってこわいですねー。女の子のことを歌った軟派な楽曲なんて表現をしてしまって、本当にすみませんでした。
くるみが名前ではないとしたら…
では「くるみ」が女の子の名前ではないとすると、どういう意味の言葉でしょうか。
この質問に対するヒントは2番の歌詞にありました。
どこかで掛け違えてきて 気がつけば1つ余ったボタン
同じようにして誰かが 持て余したボタンホールに
出会うことで意味ができたならいい
勝手に解釈してみると、
ひょっとしたら「くるみ」とはボタンのことなのかもしれません。
そう言われてみると、幼い頃いつもかぶっていた青い毛糸の帽子には、あごひものところにくるみのボタンがついていました。
お気に入りのカーディガンについているのは、くるみのボタンです。
確かにこれまでわたしのまわりには、いつも何かしらのくるみのボタンがありました。
そう思うと、なぜか自分のことがくるみのボタンのようにな存在に思えるようになってしまったのです。
くるみのボタン
現状が厳しいのは、たしかに外的な要因がきっかけではありますが、その現状を招いた原因はまさしく自分自身にあります。まわりの環境を批判するのは簡単ですが、その環境への判断を誤り、対応できなかったわたしの責任の方が一番重いはずです。
言い換えると、自己責任で規定のレールから足を踏み外してしまったと言えます。きっとそのままパソコンメーカーに勤めていたら、今も安心して暮らせていたことでしょう。
自ら可能性を模索して、苦難の道を選択してしまったわたしと、
どこかで掛け違えてしまって、気がついたらひとつ余ったボタンが、同じように思えてならないのです。
では、現状をどう打開していけばよいのでしょうか。そのヒントはやっぱり歌詞の中にありました。
『くるみ』の歌詞はこう続きます。
同じようにして誰かが 持て余したボタンホールに
出会うことで意味ができたならいい
わたしと同じようにがんばってもうまくいかない、どこかで掛けまちがえて余ってしまったボタンホールに出会うことで、
誤ってドロップアウトして余ってしまった自分に、意味を持たせるといい
と歌詞は告げています。
承認欲求バブルからの卒業
このことこそが、わたしに一番必要なことだったのかもしれません。
いつもまわりに合わせているから、会話はほとんど聞くばかりで、まわりの期待を察して、まわりのためにいつも動いてきました。
これでは、本来はのんきでまぬけな自分に気づいてくれるはずがありません。
わたしは余ったくるみのボタンだったはずです。
どこかで奇跡的に、わたしに合う環境や、わたしをいいと思ってくれる人に出会えたとしても、自分が形を偽っていては、ボタンホールもわたしがぴったりなボタンなのかどうかがわかりません。
やっぱりわたしは、いつも変わることがないくるみのボタンでいないといけないのです。
そしてぴったりなボタンホールさんがわたしを見つけてくれることで、今回の苦難もこれまでも努力も、家族に迷惑をかけ続けてきたことも、すべてハッピーエンドとなり意味を持たせなければならないのです。
過去の苦難があったからこそ、つらい経験を生かして、今の幸せをつかんだんだと、未来の自分が実感することこそが、恩師や家族に対する真の意味での恩返しになるのではないかと思えるようになりました。
よい意味でも悪い意味でも自分は自分でしかなく、他の人と違うから自分なんだ
ということを『くるみ』という楽曲が、わたしに教えてくれました。
いつでもどんなときでも、自分らしいくるみのボタンであり続け、自分に合ったボタンホールを見つけだすことこそが、今後の新しいライフワークになると思ったかえるがおなのでした。
自分らしくあり続けること
確かに自分らしくあり続けることは難しいことなのかもしれません。
まわりに合わせて柔軟に変化する方が、一人で立っているよりも寄りかかれる分だけ、きっと心強いことでしょう。
承認欲求バブルに陥っていた時の自分は、まわりの人に合わせてまわりの人のためにがんばっていましたが、これも本当はまわりの人にモチベーションを与えてもらっていた分だけ、まわりの人に依存していたのかもしれません。
頑固に自分の考えを押し通すことはできませんが、自然体でいることはいつでもできるような気がします。まわりの人にも合わせることができるし、自分でも自立して自分らしく存在することができるという、両方ができてはじめて柔軟な考えを持てるような気がしました。
まとめ
これまで何年も聴いてきた楽曲だったはずなのに、きっと現状がなければ、『くるみ』という楽曲の真の意味には気がつかなかったように思えます。
今があるからこそ、突然周波数がぴったり合って、わたしに楽曲が語りかけていたことに気がつきました。音楽の力はすばらしいです。さびしい時、かなしい時、心細い時、うれしい時、いつも気持ちによりそってくれる力が音楽にはあります。
ちなみに『くるみ』の歌詞の解釈については諸説あって、過去の自分に向けた歌やMr.Childrenの由来になったという説の方が実は有力です。今回の解釈はあくまでかえるがおが感じたオリジナルの解釈ですので、おまちがいなくです。
歌は作り手から離れた瞬間に、受け手の感じ方に委ねられるものでしょうから、わたしみたいな変わった考え方をしても、いいんじゃないかと、大目に見てもらえると助かります。
むかしバンドをやっているときに、下手な自分のボーカルを少しでもいい音域で響かせたいと思ってただけの曲だったのに、今では自分のテーマソングといえるまで昇華した『Each Of Life』という楽曲もあります。
音楽って気持ちに密接に影響して、勇気づけてくれる見えない力がきっとあるんでしょうねぇ。
もちろんわたしだけではないはずです。この記事を読んでもらった方にも、自分らしさを心から認めてくれる、どこかのボタンホールに出会えますように。
日々がんばっているくるみのボタンのみなさんへ
かえるがお