こん○○は、かえるがおです。
今回のかえるがおは、自分の中に潜む二面性について、まとめてみたいと思います。
自分の中に2つの意見があったり、冷静な自分や、子どものように幼い自分を抱えながら、生活されている方も、けっこう多いことと思います。
自分に潜む二面性というと、ひょっとしたら精神疾患じゃないかとか、生育歴に起因するアダルトチルドレン(AC)ではないかという、とっても心配なイメージを持ったりされる方もいらっしゃることでしょう。
今回はそんな心配な方に向けて、自分に二面性があるのには理由があり、そう悪いケースだけではないのかも?という提案をするだけの記事です。
え、本当かな?うさんくさいなぁ、どっかの新興宗教のまわしものじゃないだろーねぇ、なーんて心配されないために、完全100%プライベートな話をさらけ出して、その理由を考えていきたいと思います。
もちろん、乃木坂の話題めあての常連の方やまぬけで笑える話をご希望の常連の方はスルー推奨のお話です。
自分のことなのになぜかその理由がわからない、長年悩んでいる不思議なことがあるんですよ、という話題から今回は始まります。
楽しめない理由
そんなもったいぶるような大げさな話ではないんですが、わたしにはある特徴というか、悩みがあります。
それは、人前では心から楽しめないことです。
なーんだ、と思われる読者の方もいらっしゃるとは思いますが、これが結構深刻なのでございまする。
一言で人前で楽しめないといっても、イメージしにくいですよね。
いくつか人前で楽しめない例をご説明させていただきたいと思います。
まず、わかりやすいのが音楽のLIVEです。
よく行くアーティストのLIVEでは、観客が楽曲に合わせて人差し指と親指を立てて前後に振る、という動作をするんですよ。
アイドルのLIVEであれば、サイリウムの色を合わせて振るとか、みんなで声を合わせて合いの手を入れる、なんていうのも同様です。
アーティストさんのパフォーマンスに合わせて、観客のみなさんは一体感を感じながら、のりのりで楽しそうにその動作を行っているのですが、わたしの場合これがなかなかできません。
理由はとってもかんたんです。ずばりはずかしいからです。
なーんていうとても幼稚で単純な理由なのです。思春期の学生じゃあるまいし、ふつーのおぢさんにも関わらず、これが本当なんですよ。
もちろん、おまえがなんかやってるところなんか、だーれも見てねーよ
とおっしゃる気持ちはじゅうじゅう承知しております。
LIVE中にわたしを見ている人なんかだーれもいないし、みんなで合わせてその動作をしている時に1人だけやってないと、のりが悪いやつだ、とまわりのみなさんが冷めてしまい、輪を乱してしまうこともよーくわかっています。
でも、本当にはずかしいのです。
はずかしさを感じてしまう論理
はずかしさを感じてしまう論理はこうです。
みんなが楽しんで盛り上がっているのに、わたしなんかが盛り上がっていいのだろうか。
そんな動作やったこともないのに知ったかぶりしてまねしていいのだろうか。
もし、まちがっていたらどうしよう…
こんな経過の思考過程を経て、いつのまにかLIVEに参加しているわたしを、もうひとりのわたしが客観的に見つめていることになります。
まぁ、最近はようやく少しだけ成長して、みなさんに悪いのでまわりにあわせて動作をやったりしますが、みなさんが満面の笑顔に対して引きつった顔で、はにかみわらい程度しかできません。
LIVEだけでなく某ディ○ニーの遊園地とか、ジェットコースターとか、観光地のボートとかカートなどなど、満面の笑顔で楽しんでいる人たちの中で、
どーせただの時間貸しで時間が来たら終わりですし、かつて無数の人たちが楽しんだものに対して夢中になることができず、ぜんぜん笑えないわたしがいます。日頃は笑ってなくても笑った顔なんすけどねー。
理由は生育歴?
みんなが楽しいと思うすぽっとに行っても楽しめないという、自分の特徴に気づいたのは高校生の頃でした。
文化祭やスポーツ大会などの学校行事の時なんかに、クラスメイトはめちゃめちゃ盛り上がるんですよ。特に女子なんか、自分を忘れて満面の笑顔で心からイベントを楽しんでいるようでして、楽しむことができない自分とのギャップに、はじめて気がつきました。
文化祭もステージに出演したり、スポーツ大会なんてとっても得意なので、どっちかというと楽しめる要素はわたしの方にあるはずなのに、まわりのはめの外し方がはんぱなく、ぜんぜん自分のことではないことを心から楽しんでいる様子を、うらやましく思えたのでした。
ちいさい時もそうでした。毎年お正月にはいとこ連中が集まって、お年玉をもらうとみんなで競争して駄菓子屋さんに走って行ってたんですよ。
最年少であるはずのわたしは、ぽつんとひとり残されて、母親やまわりのひとに、
一緒に行ってきな、と言われてはじめて、もう走り去ったいとこたちのあとを追いかけて、とぼとぼ歩きだしたくらいです。
この出来事に気づいたのが3歳くらいなので、みんなの前ではしゃいで楽しめない病は、どうも生育歴には関係なく、持って生まれたわたしの特徴であることがわかります。
本当はみんなと一緒にはめをはずしたいんですけどねー。
もう1人の自分
いざ楽しんではめをはずそうとするとですね、もうひとりその様子を冷静に見ている自分がいて、自分のはしゃいでいる様子を客観的に見て、はずかしいからやーんないということになるんですよ。
では、このもう1人の自分というのは、楽しんではめをはずそうと思っているときだけに現れるかというと、そうではなくて結構頻繁に顔を出します。
前の仕事でよくお詫びする機会が多かったのですが、そのお詫びしながら一方的に自分が叱られている時にも、もう1人の冷静な自分が、なぜか怒られている様子を見ているような気がするんですよ。
相手が興奮して怒っているときには、こちらも息を合わせて話を聞くのですが、そんなせっぱつまった状況でも、なぜか冷静な自分を感じてしまいます。
まぁクレームというのは、言いたいことがあるから怒ってるので、その言い分をおとなーしくぜーんぶ聞いて怒る理由が消滅すると、なぜかみなさん人が変わったかのように普通の人に戻られるので、それでクレーム処理はおしまいになるのですが、
クレームが終息したときに、みためは真剣な顔をしていても、もう1人の自分がうまくいったことにくすくす笑っているんですよ。
こんな感じで楽しいときだけでなく、せっぱつまったピンチの時にも、もう1人の冷静な自分が確かに存在するのです。
Google先生で調べてみた
自分の中にもう1人の自分がいると、分裂気質じゃないかとか、二重人格じゃないかとか、精神的な疾患があるんじゃないかと悩んだります。
いぜんこーむいんだったときにですね、無理矢理カウンセラーの資格をとらされたので、一応カウンセラーと名乗ることができるんすよ。名乗ることだけでスキルはいっさいありませんけどねー。
世間では誤解しているひともいると思うのですが、カウンセラーって医師ではないので、病気の診断はしてはいけないんですよ。そもそも診断できるほどの知識もまーったくありやせんしね。
ってことで、ほんとうに病気ではないのか、こんなんで大丈夫なのか、何でも知ってるGoogle先生に"もう1人の冷静な自分"という検索キーワードで聞いて調べてみました。
現在のPCの環境で検索結果の1位に表示されたのは、
もう一人の自分を作ると困った問題がどんどん解決していく
というタイトルの記事。
検索結果の2位に表示されたのは
心から信頼できる他者=もう一人の冷静な自分の目であり心である
というタイトルの記事でした。
どうももう1人の自分が、自分の中に内包する場合は、けっこうプラスの意見が多そうですねー、と思ってたら検索結果3位の記事が、やっぱり心配なことをどストレートに突いてくる記事なのでした。
心理学の相談に専門家の方が答えているのですが、
その内容が
客観的な自分により強く抑圧されていて身動きができない状態で、抑圧されている自分が耐えられないよーと騒ぎはじめている状態なんだそうです。
大人の自分と子どもの自分なんて言葉も出てきますし、これこそ一番恐れていたアダルトチルドレン(AC)という診断そのものなんですよねー。
やっぱり医師は鋭い視点で見ているなー
なーんて思っていると、回答者さんの肩書きをみて、目がてんになりました。
カウンセラー
なんじゃー、カウンセラーなんかいぃ。
カウンセラーっていうのはですね、
自己一致、無条件の肯定的配慮、共感的理解ができたときに、クライアントに有益になるって言葉があります。そんなコミュニケーションを中心としたおしごとです。
でも、繰り返すようですみませんが、医者じゃないんだから診断はできないんすよ。
カウンセラーが診断できるのであれば、わたし自ら診断しちゃいますよ。
ってことで、高名な先生の豊富な経験から、相談に対する傾向を踏まえた貴重な回答だとは思うのですが、今回は参考にはさせていただくということで、公式に認めることはできなそーです。ごめんなさい。
二面性の正体をつきとめる
では、二面性について心配しているくらいであれば、しっかり自分を見つめてみて、わたしの場合の二面性の正体を、具体的につきとめてみたいと思います。
本当は楽しみたいという自分と、心の中にいる冷静で楽しむことがはずかしいと思う自分を比較して考えてみると、これまでのエピソードの中にヒントが隠れていることがわかります。
これまでの生育歴を思い返してみると、はずかしくて楽しめない、ひかえめでひっこみ思案の自分は、もうすでに3歳の頃から心の中に形成されていることがわかります。
それに本ブログに幾度も書いてきたように、年配の自己中心的な女性の方との関係に極端に弱く、母親や姉だけでなく知らない人であっても強引な理由でしかられたりおこられたりしてしまいます。
もともと、うちは女性が強い家系(※いえけいではない)でして、祖父も父親もいつもわらっているような控えめなひとでございました。
ってことはですね、3歳の頃から記憶に残る、楽しむことがはずかしいと思う気持ちは遺伝の可能性が高く、そのこと自体が元来持って生まれたひかえめなわたしの性格であることがわかります。
では、本当は楽しみたいっと思う方の気持ちはなんなんでしょ?
元来持って生まれた性格と対比してみると、こちらの方も結構かんたんに説明できます。
ひっこみ思案で楽しめない性格なので、まわりが楽しんでいる場面で楽しむことができず、これまでずーっと損をしてきたと思うのです。
これまで生きてきた中で、何度も何度も楽しむことができず損をしてきたという経験が、楽しめるようになりたいなーという経験に基づく人格を作ったと考えるのが自然です。
本来の持って生まれた性格や気質に対して、経験から学んできて形成してきたことを、ここではもっとわかりやすく、社会性と表現したいと思います。
自分の本来の性格というのは、先天的に個人で持ち合わせているもので、社会性というのは社会という集団で、ドロップアウトすることなく生活していくことができるように、経験により後天的に身につけた能力と表現することができます。
例えばそとづらがいいと言われるとか、目上の人に思わずこびをうってしまうとかいうことも、これまでの経験により後天的に身につけてきた社会性ですので、心配することはないでしょう。
もし、その社会性で失敗の経験を重ねてしまったら、経験から学びまた成長した社会性に進化することでしょう。
そのためあまり心配することはないと思うのです。
今回突き詰めて考えて行った結果、わたしの二面性の正体を以下のようにまとめてみました。
本来の性格:先天的に個人で持ち合わせているもの
社会性:社会からドロップアウトしないために、経験により後天的に身につけたもの
ということは、たーくさんいろんな失敗の経験から学んで、本来の自分から少しは成長している、という、二面性を心配してたはずなのに、逆にいい結果であることがわかりました。
思い起こせばひとなみはずれた、たーくさんの失敗を繰り返してきましたが、翻弄され傷つきながらも気持ちを切らさずなんとか乗り越えてきた、過去の自分をほめてあげたくなりました。
いつかはきっと、社会性の自分の方が優位になって、はずかしがらずに楽しもう、と思える日が来るのかもしれませんね。
まとめ
自分の二面性に気づき、分裂気質や精神疾患じゃないかと心配したことから、考えてみましたが、結果的に自分の成長に気づくことになりました。
二面性とひとことに言ってみても、確かに病的な分裂気質の場合もあるでしょうが、今回の例のように自分の成長が要因の場合もあります。
二面性とひとくくりにするのではなく、なぜそう感じてしまうのかを、分析して考えることの方が重要ではないかと思います。
自分のことをいちばんよく知っているのは、まちがいなく自分自身です。
しっかり自分の気持ちに、やさしく語りかけてみて、そう感じる理由を教えてもらうと、自分の中に二面性を感じたとしても、そう心配することはないということを、今回の結論としたいと思います。
もちろん、自分の中の病的なものに気づいたとしたら、病院へ行かれることをおすすめします。ただ、医師の資格をもっている人を除き、自分のことを自分で診断はできませんので、心配だったら病院へ行くと医師が診断してくれると思います。
もし自分を見つめることが難しかったら、そのときはじめて活躍できるのがカウンセラーです。わたしごときでよかったら相談にのらせてもらいますので、遠慮なくおはなしくださいませ。
ということで、今回のかえるがおはおしまいです。
稚拙な文章でしつれいしました。