続・今日もやっぱりかえる顔

なぜか巻き起こってしまうまぬけな日常を、ひらがな中心のまぬけなテイストでお届けします。ときどき乃木坂46。

気が乗らないやらなければいけないことのやる気を引き出すためには

今回のお話も就活に関するお話から始まります。


最近とある大規模に行われる試験を、今頃になって受験したのですが、

その受験勉強の期間に、プライベートでばたばたしてしまって、

受験勉強にじっくり取り組むことができませんでした。

 

もともとのん気で直前にならないと焦って勉強しないタイプじゃなかったっけ?

という感想を持つ方もいらっしゃることだとは思いますが、

そう言ってしまうと話が進みませんので、つつがなく話を続けさせていただきたいと思います。

 

過去の自分を振り返って

あぁ、もっと勉強してればよかったなぁ

 

なんて後悔してみても、過ぎ去った時間は元に戻るはずもありません。

 

ただし、プライベートがばたばたしていたということはまぎれもない事実です。

今回のかえるがおは、いつもたくさん我慢して頑張っている人へ、やる気の引き出し方についてまとめてみたいと思います。

 

 

 

なぜか受験勉強に取りかかることができない

受験勉強のあるあるとして、試験を目前にしてもなぜか受験勉強に取りかかれない、という問題があります。

自分でもやらなければいけないことは、よーくわかっているつもりでも、なぜかまったくやる気が起きず、月日だけが過ぎてしまいます。

 

わたしもまた、重度の受験勉強に取りかかりたくない病を発症しておりました。


あの資料も読んでおかなきゃいけないし、この本も読んで覚えておかなければいけないと、やらなければいけないリストは山ほどあふれいるのに、なぜか不思議なことに、気持ちばかりが焦って、まーったくやる気がおきないのです。

 

確かに学生時代の定期テストも、毎日コツコツ勉強するタイプではなく

部活動がテスト休み期間に入ってから、一夜漬けで時には徹夜をしてまで、勉強にやっと取り組むタイプでした。

 

今でも、定期テスト当日に、あの教科の勉強しとくの忘れた!

と夢に見て、がばっと起きてしまうことすらあるほどです。

それにしても、今回の試験だけ特別に、勉強したくないなーという思いが強いことを

不思議に感じていました。

 

気持ちを変えるには環境から

試験日がどれだけ近づいてきても、気持ちばかりが焦り、まったくやる気がおきないのが、自分ながらとても不思議です。そのうち、やることはたくさんあるのに、ちゃんと取り組まない自分に対して、自己嫌悪に陥って自分を責めたりしてしまいます。

 

なぜ自分ははてしなくなまけものなんだろう


みんな頑張ってるのに、どうして自分には勉強に取り組むという簡単なこともできないんだろう


試験日が近づく度に焦って、何もできない自分を責めてしまっていました。

試験日が迫っているのに、勉強しないわけですから、どうにかして受験勉強に取り組む環境をつくる必要があります。

 

自宅にいると、快適に暮らせるために作り上げてきた環境がありますので、どうしてもゆったりしてしまいます。そこで、この恵まれた自宅にいる以上、勉強に取り組みにくいことに気づきました。

 


気持ちを変えるには、やはり環境を変えることが一番です。自宅でゆったりと副交感神経が優位になった状態を、外出して気分を変えた方がよいと思えるようになりました。


異邦人生活

場所を変えて勉強をすると言っても、なかなか外出先で勉強をできる場所がありません。近くには図書館がいくつかあるのですが、公共の図書館はすべて席数が少なく、のんきに出かけてみるとその少ない席はすべて埋まっていて、争奪戦になっていることがわかりました。

 

朝早く出かけてもすでに行列ができているし、席待ちをしていても、みんな勉強に必死ですので、席が空くこともありませんでした。

どうも考えることはみんな同じのようで、無料で勉強に利用できる場所には限りがあることがわかりました。ただ勉強ができないという気持ちの問題だけなので、とてももったいないのですが、有料でもいいので勉強に取り組める場所を考える必要があるようです。

有料でもよいということになれば、勉強に取り組める場所はいくつもあります。

自宅の近くでは、スターバックス、デニーズ、マクドナルド、ケンタッキー、ドトールといくつも浮かんできました。

 

普通であれば、どこか行きつけを決めて、慣れた場所で勉強した方がよいのかもしれませんが、わたしには心配なことがありました。

 


それは、長時間勉強していて、営業妨害にならないのか?

あの人、毎日安いものを注文して、長時間いるけど、と安物長時間さんとあだ名をつけられていないかな

など


という、なんともどうでもいい心配でした。勉強をしなければいけないことと比べると、そんなこと言ってられない現状なのですが、どうしても他の人に迷惑をかけていないか気になってしまうのです。

ということで、1店舗3時間まで、と勝手なルールを決めて(3時間は十分長いですよね?)

1日に何軒も、近くのお店をはしごする生活を送ることになりました。
確かにお金がもったいないのですが、自習室を借りるよりコストは安い、と全く関係のないことと比べて、自分の気持ちを落ち着かせていました。

 

もったいないから仕方ない

ここまでコストをかけているという相乗効果があり、あれだけやりたくなかった受験勉強に、やっとのことで取り組むことができました。お金がかかると、もったいない意識が働くものですね。

 

しかも意外だったのは、お店をはしごする効果でした。

1店舗で勉強していると、時間がたつにつれて疲れてしまいます。

 

そんなときに別のお店に場所を変えることで、小休憩とリフレッシュ効果が重なって、

また、改めて勉強に取り組むことができるという、効果までありました。


あれだけ勉強をしたくなかったはずなのに、やっと勉強に取り組める生活習慣を身につけることができました。

 

ただ、コストがかなりかかっているんですよ。

何度もコスト、コストとうるさいですが、どれだけけちなんだよ、っていう話です。


我慢のキャパシティ

いつものように前置きが長かったのですが、ここからが今回のお話の本題です。きっと人それぞれ容量は違っても、我慢のキャパシティというのが決まっているように思えます。



アンガーマネージメントという言葉がありますが、それぞれ怒る観点やキャパシティが違うように、我慢するということにも、どうも限界があるように思えます。

言い訳に聞こえるかもしれませんが、この受験勉強の期間は家族2人の闘病中の期間と重なります。


結果的に1人は一次試験当日に亡くなり、もう1人は今でも入退院を繰り返しています。都内で身寄りがわたししかいないため、入院時には身の回りの世話が必要で片道1時間半かけて病院まで通います。

家族の病気というのは、とても心的な負担になるらしく、ずっとつらい現実を受け止めることに、自分ながらに耐えて我慢していたんでしょうねぇ。

そもそもおこちゃまみたいな精神状態のわたしにとって、うまくいかない現実に耐え続けてきて、我慢のキャパシティはとっくに超えていたようで、毎日ラーメンを食べてはいけないと思っていても、我慢ができずにラーメンを食べに行ったり、受験勉強をしなければいけないとわかっていても、気持ちを奮い立たせて勉強に取り組むことはできませんでした。

 

食欲とかやりたいこととか、ほんの細かいことにも、我慢ができなくなっていたのです。そんな状態でこつこつと勉強できるわけがなかったんですね。

もし、同じように受験やテスト勉強で、勉強が手に付かない場合、なにか重大なことに耐え続けていないか、我慢していないのか、我慢のキャパシティに余裕はあるのか考えてみてください。

 

我慢のキャパシティが底をつきるまえに、解放しなければいけません。


耐える我慢からの解放

我慢に耐えることから解放する方法は、とても簡単です。

 

わたしが無意識のうちに自己防衛的にやっていた、好きなものをおなかいっぱい食べることや、どうしようもないことはいったんリセットするために、寝てごまかすというのもわたしの得意技です。

わたしが学んだ精神科医の先生は、現代社会でうまく生きていく方法として、不安や心配事を忘れるということを推奨していました。

 

忘れるといってもすっぱり忘れることはできませんので、おいしいものを食べたり、楽しいことをしているときに、楽しいことを思う存分楽しむことで、自然とつらいことを忘れる時間を作るという意味です。

細かい問題や課題が溢れていて生きにくい現代において、四六時中24時間問題と向き合い耐え続けていると、我慢のキャパシティを超えてしまって精神的にまいってしまいます。

我慢ばかりで暮らしていくことは難しいので、ほんの少しのこと、甘い物を食べるとか、大好きな乃木坂の番組を見るとか、ちょっとしたことでよいのでその時間だけは楽しいことで、つらいことをきっぱり忘れて、その我慢のキャパシティを自分で調整すると、本当に取り組まなければいけないことに、耐えながら取り組めるようになるかもしれません。


そのいったん見ない振りした困難には、正面から向かって戦わなければいけない時が必ずやってきます。

 

でも、まだ正面から向かうべく追い込まれていないのに、四六時中未来の不安に縛られるのは、精神的にもよくないし幸せを感じることができない、という考え方でもあります。

向き合うときと、瀬を向けて力を蓄えるときとのメリハリが必要という意味だと、自分では捉えた言葉でした。

ちなみにわたしは、いいかげんにおこちゃま感覚を卒業し、我慢のキャパシティを増やす努力をしないといけませんけどね。

まとめ

現代人はみんな多かれ少なかれ、その環境に、その境遇に、超えなければいけない課題に、運命のいたづらに、耐えながら我慢して生きています。

我慢を乗り越えることで、精神的に成熟し我慢のキャパシティも増えていくのかもしれません。

ただ、我慢ばかりをしている生活が楽しいはずがなく、いつかは破綻を迎え自分に返ってくるリスクがあります。

 

つらい長距離を走った後、お風呂に入ると驚くほどとても気持ちがよいことと同じように、つらい状況に耐えている人は、ギャップが大きい分だけ楽しいことで幸せを実感ができる人でもあります。


自分に厳しいことも大切ですが、真の意味で自分をいたわってくれる人も自分しかいません。

自分に厳しく、一方で自分の気持ちにやさしく、日々の生活に幸せを感じてほしいと願う、今日この頃なのでした。

なんだか、新興宗教的なまとめになりましたが、
そんな宗教はやっておりませんので、おまちがいなくです。

おしまい。